名称 | 浄土宗 |
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本山 | 浄土宗総本山知恩院 |
宗祖 | 法然上人(ほうねんしょうにん) |
開宗 | 承安5年(1175年) |
本尊 | 阿弥陀仏(阿弥陀如来) |
教義 | 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称え、人格を高め、社会のために尽くし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う |
御経 | お釈迦様がお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経 |
法然上人(幼名:勢至丸)は長承2年(1133年)、現在の岡山県に武士の子として生まれました。
9歳の時に戦で父を失い、「仇をとればまたお前が狙われ、その繰り返しに終わりは無い」という父の遺言に従い、
僧であった叔父の観覚(かんがく)に弟子入りし、学び始めます。15歳で当時の最高学府であった比叡山に上り出家し、
「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」と名を改め、智慧第一の法然房と呼ばれるまでになりました。
当時の仏教は、鎮護国家や貴族など富裕層中心のもので、その教えは多くの庶民には届いていませんでした。
法然上人は「どうしたら来世に不安をもつ人々を救うことができるだろうか」と、膨大な経典を何度も読み返し、
承安5年(1175年)春、43歳の時、
「ただひたすら、心から南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀仏におすがりすれば、
誰彼の区別なく救い取っていただき、極楽浄土に往生できる」
というお念仏の教えに出会われました。
この教えには、どんなに修行しても学問を積んでも、知るのは自分の愚かさ・至らなさであるという、
上人の内省に内省を重ねた人間観が込められています。
浄土宗はこの時をもって開宗となり、これは当時の仏教革命にもなりました。
社会的にも大きな旋風を巻き起こし、一般の民衆へ大変な勢いで広まっていったのです。
しかし、この教えを間違って理解し広める弟子たちも現れ、革新的な教えは従来の仏教界からの批判も受けることとなります。
そのため75歳の時に、朝廷から流罪を受けましたが後に赦免となり、最後は都へ戻り大勢の弟子たちに見守られ、
建暦2年(1212年)1月25日、享年80歳で安らかに極楽浄土へ往生されました。
お念仏とは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と声に出してお称えすることです。
お念仏をお称えすることで、どんな人間でも臨終の際には極楽浄土から阿弥陀如来にお迎えいただける、
これが浄土宗における最も大切な教えであり、お勤めです。
一般的には亡き人の菩提を弔うため、供養のためにお称えすると考えられる方もいらっしゃいます。
しかし本来は、法然上人の「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。
とてもかくてもこの身には、思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」のお言葉通り、
生活の中でお念仏を称えることこそ、阿弥陀如来の御心にかなうのです。
どこまでも、命ある中でお称えすることが大切です。
誰でも多かれ少なかれ、「欲深い心」「怒りの心」「愚かな心」など、様々な煩悩に日々さいなまれています。
その至らない自分であっても、お念仏をお称えすることで、
臨終の際には極楽にお迎えいただける、これこそがお念仏の功徳なのです。
一遍でも多くのお念仏をお称えし、毎日を「明るく、正しく、仲よく」お過ごしください。
南無阿弥陀仏は、「南無」「阿弥陀仏」の二つの言葉から作られています。
「南無」はインドの古い言葉(サンスクリット語)で、「帰依する」(お願い致します)という意味で、
「南無阿弥陀仏」 では「阿弥陀様、どうぞよろしくお願い致します」という意味になります。